こんにちは。
豊かな食材溢れる瀬戸内海に面した、広島県福山市に佇む隠れ家料亭『一燈照隅』の元嶋です。
11月も下旬を迎え、日が暮れると外を歩くのが億劫になってしまうほどの、寒さを感じられる季節となりました。
周りを見渡すとコートやマフラーを着用されておられる方も数多く見受けられるようになり、本格的に冬がやってきたなあと感じております。
さて、本日は本年も残りわずかということで、新年明けましてお正月に頂く日本料理の代表『おせち料理』についてスポットを当てて、お話ししていきたいと思います。
【そもそもおせちとは…?】
まず初めに、皆様『おせち料理』はどのようにして生れたかご存じでしょうか。
おせちは、もともとは新年を祝うための料理ではなく、新年に高い山より下りてきて幸福をもたらしてくださる「歳徳神」様と呼ばれる年神様にお供えするためのお料理でした。
昔は、ご先祖様が田の神、水の神、年神様となって子孫繁栄を見守ってくださっていると考え、その年神様へのもてなし、幸福や無病息災をお願いするために準備されるようになったのが『おせち』の始まりです。
また、「喰積」と呼ばれる重箱に入れていたことも起源の1つと言われています。
〇福やおめでたいことを「重ねる」
〇お客様へのおもてなしとしてお出しするにも最適である
〇保存がよく効く
といった意味が込められて、おせちでは重箱を用いるそうです。
正式な段数としては4段が採用されており、各段には縁起の良い奇数種のお料理を入れることが望ましいと言われています。
また、おせちの由来としては、漢字の「御節」で、暦上の「せちく」に「お」つけた【おせちく】という言葉から「おせち」という名前になったとされています。
ま作り置きが可能な食材が非常に多く用いられ、「お正月にかまどの神様を休ませることが出来る」という意味や、「三が日は主婦を家事から解放させる」といった意味も込められています。
【おせちの歴史は弥生時代まで遡ります!】
おせちの起源と由来をご紹介したところで、次に歴史について遡っていきたいと思います。
本格的に中国大陸より稲作が伝わったのは弥生時代。その稲作と共に大陸より暦が伝わり、節目ごとに神様へ収穫を感謝し「節供」というお供え物をする風習が根付いていきます。
これがおせち料理のはじまりだと言われています。
それが風習から行事に変わっていったのが平安時代です。節の行事が宮中行事として行われるようになり、唐の暦に基づき節目に邪気を払い、不老長寿を祈る儀式として節会が開催され、おせちが振る舞われるようになりました。
江戸時代に入ると元旦は幕府認定の祝日となり、1月7日、3月3日、5月5日、7月7日、9月9日には豪華な料理が庶民の間でも振る舞われることが習慣となりました。
第2次世界大戦以前は「喰積」や「蓬莱」と呼ばれていたおせちも、大戦後におせちという名で広まり現在に至っています。
【おせち料理に使用する食材には全て意味があった】
ここでおせち料理に使用する食材全てに意味が込められていることをご存じでしょうか。
また、4段の意味には深い理由があり、完全数である”3”にさらに1加えるという意味でより縁起の良い数字として4は用いられ、それをおせちにも採用したそうです。
ご存じの方もおられるかもしれませんが、ここで有名な食材にまつわる縁起についていくつか見ていきましょう。
〇数の子…子孫繁栄。ニシンの子であることから「二親健在」とも言われています。
〇黒豆…まめに、勤勉に働く。
〇田づくり…豊作を願う。
〇海老…腰が曲がるほどに長生きするという長寿を願う。
〇鰤…大きさによって呼び名の変わる出生魚である鰤は、立身出世を願う。
〇紅白なます…人参や大根といった根菜の様に根をしっかりはることで、家の土台を強くする。
などなど、おせちに入れられる食材や料理にはすべて縁起の良いものが収めされており、将来の繫栄を願い現在まで脈々と受け継がれています。
【「調理師会の東大」と呼ばれた名料亭「播半」出身の料理人がお届けするおせち料理とは…】
一燈照隅では、名料亭「播半」で研鑽を重ね会得した伝統技と、「究極の引き算料理」を掛け合わせて、類稀なるものに一品一品仕上げていきます。
当店では、ご自宅ではなくぜひ総料理長が目の前でお届けする手捌きとともにライブ感覚でお楽しみ頂きたく、ご来店された方のみにご提供するため、準備を進めております。
45日間休まず、そして塩だけを使用して仕上げる『からすみ』や、極限まで醤油や味噌、砂糖などの調味料を抑えた『いくらの醤油漬け』や、『数の子の味噌漬け』、『黒豆の蜜煮』などを12月中旬よりご来店されたお客様へお届け開始を予定しております。
ご来店された方だけがご体験頂ける「味の向こう側」をぜひご堪能下さい。
皆様とお会いできます日を心よりお待ちしております。